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プライバシーの侵害だ

匿名劇壇という劇団を主宰する福谷圭祐のブログ。このブログは基本的に自分のためだけに使おうと思います。考えをまとめたり、情報を整理したり。ま、もちろん他人の目に触れることは意識して書くけれど。 でも、あまり読まれたくはない。だからタイトルは、 「プライバシーの侵害だ」 。

シンポジウムに向けて一人ブレスト

お世話になっております。

 

今度、ウイングフィールド25周年特別企画シンポジウムに出演します。

 

http://www.wing-f.co.jp/plan.html

 

こんなチンピラでもシンポジウムに出られるとは。チンピラがシンポジウムで何を語ると言うのか。ああ、不安である。空飛ぶ観劇部で管を巻いていたい。

「あいつらはシンポジウムだ社会活動だ、いちいちエラそうで気に食わねェ。おーい、姉ちゃん、ついでくれ。いいかァ、俺たちゃ所詮河原乞食だ。御上さんをどうこうしようだなんて考えちゃあ、お仕舞ェよ。チッ、いいじゃねえか、ケツくれェ!どいつもこいつもお高くとまりやがって!チクショウ、おい、店替えるゾ!」

僕はどちらかというと、そんなタイプのチンピラだ。わりとインテリぶった言葉遣いもするし、醸し出す雰囲気でカシコ側を装ったりもするが、心は基本チンピラが支配している。

 

このあいだ後輩に「福谷さん、そろそろ痩せないんですか?」と聞かれたとき、「でも、俺いまウェイトあるから、そこらのギャル男やったら体当たりで飛ばせるで?」みたいなことを言ってしまった。なんだそれ、と自分でも思ったが、長らく痩せっぽっちでヒョロガリだったことのコンプレックスの反動もあるんだろう。なかなか、ね。

思うようにはいかないものだ。

 

さて。

今日はちょっと、準備をしておこうかなと。シンポジウムに向けて、チンピラ思想を調整しておこうかな、と。あまり突き詰めすぎても、当日ごりごりに固まった思想を持って挑んでしまう老害くんになってしまうので、ある程度ふにゃふにゃしたところで思考停止はしておこうとは思うが。チンピラ過ぎない、いいバランスを見つけておきたい。

 

お題は「現代演劇は衰弱に向かっているのか?」。このタイトルで何度かシンポジウムが開かれていたみたい。最初は、1992年3月ウイングフィールドオープン記念トークバトル。故・中島陸郎さんが命名したタイトルだそうだ。正直92年からこのお題があったと思うとゾッとする。しかし、「現代演劇は衰弱に向かっているのか?」と言いつつも、少なくともしぶとく2017年ここに演劇もウイングフィールドもあるので、すでに十分タフじゃねーかって感じもするが。閉店セール詐欺か、おい。

 

まず今日、準備しておきたいのは、スタート地点。僕は大体こういうとき、「衰弱したとして何がいけないのか?」という側に回りがちだ。もちろん、それがいい働きをする議論もあるけれど、基本的には「衰弱させたくない」には立ちたい。僕のチンピラたる所以のひとつだが、とにかく当事者になりたがらないのだ。外野にいたがる。

もし僕が演劇と関係ない外野なら、衰弱しようが全く構わない、と考えてしまう。

 

例えば、そうだな。シンポジウムに参加している状態で、賢そうなフリをしてフラットな意見を言うとしたら、最初はこう言うかもしれない。

 

「例えば、TPPに参加することで、価格の高い日本の農産物が売れなくなって、日本の農業が衰退するとする。僕はこれを、かまわないと思っています。輸入品の、多少質が悪くても価格の安い品が広く流通する。その結果として、最終的に日本の農業が完全に無くなったしまったとしても、仕方のないことだと思います。」

 

んで、これが本当にTPPの話なら食料自給率どうのこうの、海外に胃袋握られてどうのこうの、ICT農業にもっと予算をどうのこうの、あると思うんですけど。

演劇の話だとして、現代演劇が衰弱してるとして。でもテレビって、視聴率下がってるじゃないですか。30%超えることなんて、稀ですよね。任天堂のゲーム機も、全然売れなくなってきてますよね。僕、これって、テレビ番組が昔より面白くなくなったせいではないと思うんですよ。ゲームが面白くなくなったからじゃないと思うんですよね。まぁ、そのへんの理由はマーケットの人がそれぞれ考えるとして。

 

別に、テレビが衰弱しても、ゲームが衰弱しても、かまわないじゃないですか。僕ら。もし完全に息絶えて根絶されるなら嫌ですけど。全然、かまわないんですよね。その衰弱。というより、その衰弱って、どうしようもないことだと僕は思っていて。

 

例えばスポーツ。マイナースポーツ、メジャースポーツありますけど、それの人気不人気って、選手の実力や監督の采配でどうにかなるものですかね。たぶん、ならないと思うんですよね。運だと思うんですよね。時代の。どうにもならない時代の運なので、選手や監督としては、「いいプレイをして業界を盛り上げたいです!」しか言えないじゃないですか。あんまり意味のない、そういう台詞を。でも、それしか言えなくないですかね。例えばフィギュアがいつの間に国民的スポーツになったのか。これってフィギュアの選手の力ですかね。もちろん、選手の技術は優秀でしょう。誰に聞いていいかわからないですけど。あと、決してフィギュアの選手をディスっているわけではないですけど。

優秀になるには練習が必要で、練習には環境が必要ですよね。例えばフィギュアはイナバウアー以降盛り上がった印象だけど、その前、そんな選手を輩出する前提は、いつの間にか整えられていたんだね。

 

あ、待てよ。

話がぐちゃぐちゃして申し訳ないが、まずは衰弱の定義を決めた方がいいな。作品のクオリティとしての衰弱なのか、市場としての衰弱なのか。作品のクオリティとしての衰弱は、まあ例年岸田國士戯曲賞も出てて、受賞作無しになっていないんだから、衰弱はしてないんじゃないかな。ま、いずれにせよここは基準があいまいなので議論できないか。

市場としての衰弱も微妙だな。これって、すごく経済の話だし。今、日本の娯楽マーケット自体がしぼんでるってこともあるかもしれないし。ジャンプの発行部数ってどうなってんの。映画館の動員ってどうなってんの。そういうのが一律に下がってたら、単に演劇も同様に下がっていて、大変な時代だねって話だし。

 

んー、あー、なんだか色んな考えが走馬灯のように駆け巡ってまとまらない。死ぬのかな、俺。ま、いいや。どうせブログだから垂れ流しておこう。

 

まずひとりのクリエイターとしては「現代演劇は衰弱に向かっているのか?」に対してはこう答えよう。「知らん。俺は衰弱していない。他の人が衰弱していてもそれは関係ない。劇場が全部つぶれても、どっかでやる。お金目的なら違う商売する。路上演劇が禁止されたら家でやる。演劇が禁止されたら、闇演劇をする。衰弱とかは知らん。俺は衰弱していない」、だな。これ以上、喋ることがない。演劇界の衰弱云々に、「作品のクリエイター」としては興味がない。与えられた条件で表現を続けるだけだ。

 

ボブディランのスピーチを引用するね。

 

彼が『ハムレット』を書いている時、彼はいろんなことを考えていたと私は確信しています。『この役に合う役者は誰だろう?』、『これはどうやってステージにすべきか?』、『デンマークを舞台にしたいのか?』など。彼のクリエイティヴなヴィジョンや野望は、間違いなく彼の念頭にあったものでしょう。でも、考えたり、対処しなければならない世俗的な事柄もあったと思うのです。『資金の手当ては大丈夫なのか?』とか、『自分のパトロンにちゃんとした席はあるのか?』とか、『骸骨はどこで手に入るのか?』とか、そういうものです。『これが文学か?』という問いは彼の意識のなかで最も遠いところにあったと私は思っています。

 

もしかすると、この考えの延長線上に、「この作品を成功させるために、演劇界そのものが活気を持つことは必要だ」ということはあるかもしれない。あるかもしれないが、その前に考えることが膨大だぜ?「これが文学か?」並に、後回しでいいような気もする。

 

これってやっぱ、どっちかっていうとクリエイター以外の誰かが考えることだと思うんだけどなぁ。クリエイターがパンクしちゃうよ。「これは文学か?」の問いにも似てる気がする。「演劇は必要か?」とか、そりゃまあ考えるけど、ねェ。

じゃあ誰が考えるのかって、それはもう、「他の人」ですよ。「俺以外のみんな」です。そう思っちゃいます。んで、その結果「必要じゃない」なら、そうですか、です。「文学じゃない」なら、そうですか、です。

 

……まずいな。やっぱり、「衰弱するべきではない」の立場に立てない……。

 

よし、身近なところから攻めよう。

「演劇界」と漠然ととらえるからダメなんだ。

 

例えば、嫌なこと。

・稽古場がなくなる

・賞レースがなくなる

・劇場が少なくなって高くなる

・お客さんが減る

 

嫌だ。……でも、やっぱ、個人レベルで、嫌だ。

社会の問題を考えるとき、僕個人のこととかどうでもよくて。稽古場がなくなっても賞レースがなくなっても劇場が少なくなっても、「困らない」人が多い限り、それで何の問題もないと思ってしまう。わざわざ、それに反発しようとは思わない…。

いや、反発はするか。そりゃするか。

 

なんでだ?

作品を見てもらいたいからか。

ここに何かある気がするぞ。

 

なんで反発しないんだ、僕は。

 

おいおい……もしや……、

「俺様の演劇を観て、つまらないと思って、演劇界がしぼむのはかまわない。しかし、他人のつまらない作品を見て、演劇界がしぼむことは許さない」

という、てめえ勝手な何かが根底にあるんじゃねえだろうな…。

 

……疲れた。

 

続きはまた考えます。

 

(了)

鈴木先生、感想

お世話になっております。

 

漫画「鈴木先生」を最近読みました。抜群に面白かったです。

つい先日、

tokumeigekidan.hatenablog.com

という記事を書いたばっかりで。書いた後に一気読みしたわけだけど、自分の考え方に通じることがたくさんありました。鈴木先生的価値観は、非常に僕を勇気づけてくれるものでありました。鈴木先生は自問自答系キャラではあるものの、大胆。「女子児童を性的な目で見てしまう」という、おいおいそれ大丈夫かよっていうヘビーな悩みをかなり序盤で持ってくる。でも、だからこそ信頼できた。この作者は絶対に欺瞞を描かないぞと、キャラを超えて作家への信頼もできました。

 

欺瞞がないのに外連味があって、表現が過激なのも良い。表現に誇張があるのに、展開に誇張がないのが良い。キャラがショックを受けたときの表情など、ほとんどホラーのレベルで怖い。鈴木先生も、考え過ぎで怖い。だけどそれが、嘘じゃない。ほんと、「漫画」がうめぇんだ、この作者。器用な絵に騙されて、強引な展開に巻き込まれることは一切ない。むしろ、強い絵や強い言葉に騙されて気づかないうちに、とても繊細なところが静かに悪化していく。最高なのだ。

 

2巻まで読んだ段階で、「正しさ」とか「正論」の基盤はぐらぐらだった。この漫画は、安易な結論を許さない。「正しさ」を簡単に決定しない。だからこそ、教育の地平線が見えて、大興奮した。一体この漫画はどうなってしまうんだろうと、ワクワクした。彼方へ、彼方へと舵を切り、来たる鈴木裁判での世界の広がりっぷりは半端ではなかった。本当の意味で、「この中学生の子たちには、無限の可能性が秘められている」と思えた。金八先生が言ったなら鼻白んで終わりだが、鈴木先生の教室では違う。「無限の可能性」という言葉もまた、プラスだけではなくマイナスの場合もあることを、表裏一体で考えることができるのだ。鈴木裁判が終わるころ、生徒の成長を目の当たりにした。

 

終盤では演劇の話になる。文化祭での劇づくりを通して、中学生たちにさまざまな教育を施していく。しかもこれがまた、これまであった数々の事件の解決が、複合的に意味を為していくんだな。鈴木先生の教育が、有機的に働き出してシビれるんだよ。生徒が生きていることを実感するんだ。学校には、確実に意味がある。

そして鈴木先生の「これからも教師を演じ続ける」という決意のラストが、胸に沁みる。「演じる」なんて言われると聞こえが悪いかもしれないが、「それがどういう意味を持っていて、我々はどう受け止めればいいのか」を、鈴木先生は11巻かけて、すでに僕たちを教育してくれている。読み終わった後、「教師を〈演じる〉たァどういうことだ!」なんて考えは微塵も湧き起らない。あるいは湧き起ってわめきたてたとしても、あのクラスの面々が冷静に相談に乗ってくれることだろう。

 

とっくに評価されている漫画で今更だが、読んでよかった。

全11巻、おすすめです。

 

(了)

ダイバーシティで生きていく

お世話になっております。

 

「私にとっての常識と、あなたにとっての常識は違います。」

 

というのが僕の「常識」なのですが、これもなかなか通らない。この考え方もまた、「常識はずれ」になってしまうことだって、ままある。でもまあ、基本的には古い考え方だと断罪しちゃって構わないかな、とも思っている。多少の矛盾は棚に上げちゃって、「“常識”なんて言葉を、妙な確信を持って振りかざさないのが常識」と言っちゃっていいんじゃないかな。

 

そこはもうある程度の無茶がないと、いつまでたっても「常識」がうるさい。

 

例えば、僕らの世代ってもうかなり教育が行き届いているから、障がい者に対する感覚とか同性愛者に対する感覚とか、かなりフラットじゃないですか。同じ教室で学んで、しかもこう、特別視するっていう感覚を育むわけじゃなくて。単純に「補聴器つけてるあいつには、大きな声やジェスチャーで話そう」っていうのとまったく同様に、「あいつはケンカっ早いから気を遣おう」とか「この子は無口だから無理に言葉を要求しないでおこう」っていうのがあってさ。要するに、「特別視することの特別じゃなさ」を認識するというか。ダイバーシティがハナから前提の世界観で教育されたから。差別するっていう感覚じゃなくて、そもそも論としての多様性の理解をちゃんと育んでもらえた。「みんなちがって、みんないい」とか「もともと特別なオンリーワン」とかのブームも大きいのかもね。

 

多分、僕の通ってた小学校の教育、優秀だったんだと思う。高学年の時に担任になってくれた人は、なかなかの頑固おやじで、視野がガチガチに固まっている人で。「人によって態度を変えるな!」を平気で言ってしまう人だったけど、そこですでに「(人によって態度を変えない世界は、多分速攻滅びると思うけどなァ)」って思えるくらい、まあ小学生にしてはなかなかグローバルな考え方ができるようにはなっていた。

「価値観の違い」なんて言葉は知らなかったと思うけど、「価値観」っていうのは基本的に人によってズレまくっていて、僕の宝物は彼にとってゴミで、彼の大切な人を僕は何とも思わない、それって「常識」だよね?っていう「常識」の中で生きていた。

 

(……もはや常識という言葉をほぼ使えない状態に、自分で自分を追い込んでしまったけど、致し方ない。便宜上、使うしかない。)

 

でも、古い人たちと話すと、ときどきギョッとするくらいガチガチの考え方してる人いるでしょう。しかもそれを、「常識」とか「普通」って断言しちゃう危うさも平気で保ったまま。なんかこう、「共通理念」とか、そういうものの存在も疑ってたりしないでしょう。法律も憲法も、まず「そもそも論」でひっくり返した考え方が完全にできなくなっちゃっているでしょう。

 

あー……待てよ、でもそれでいうと、僕もかなりの革新派だからなァ…。

僕はもう「真理などない」っていう哲学がゴリゴリに固まっているから、「正しさ」というものを微塵も信じていなくて、拠り所ゼロで全然平気っていう特殊な考えがあるからなァ。「時と場合による」っていう言葉を、非常に暴力的に使うし。「人それぞれじゃない?」という、すべての話を終わらせるグングニールもばんばんぶっ刺すし。

 

……ダメだなこれ。

常識を否定する材料に常識を使っちゃってて、僕が高性能AIなら自己矛盾でオーバーヒート起こしてしまう状態になってるや。幸い人間なので、そのへんはうまいことチャラにできる低スペックで明日も生きていけるけど。

 

たぶん、僕みたいなやつらが集まって法律作ったら、たぶん一年ごとに増えたり減ったり変わったりして大変だろうな。そこはやっぱり、ゴリゴリに固まった頑固おやじ達に文句言ってる程度がちょうどいいんだろうね。

 

なんか、これを書くきっかけになった「常識を突き付けられてイラっとしたこと」があったと思うんだけど、忘れちゃったし。

 

まあもうこういうのは大体が「飲み屋で酒を注ぐくだりマジで無くなれ」に集約されるんですよ。僕の悪い癖で妙に話を拡大したけど、何が言いたいかってどうせそんな些細なことなんですよ。お酒を注がないくらいで怒られる世界、終われって話なんですよ。めっちゃささやかな願いじゃないですか。なんで叶わないんですか、神様。

 

……いや、だから、これも自己矛盾してるな。

「お酒を注ぐのが当たり前」vs「お酒を注ぐのが当たり前、じゃないのが当たり前」になっていて、結局僕も「僕の当たり前を受け入れてよ!!」って言ってるだけに過ぎないもんね。

 

……だってよー!!

注ぎたくねーんだもん!!知らねーし、てめーが飲みたいかどうかなんて!!

「注いでくれ」って言われりゃ注ぐぜ?もちろん。でも、「なんで注がねぇの?」って言われると、もうカチンだよ。知らねーよ!飲みたかったのかよ!

 

「〇〇してくれ」って言われりゃするぜ?尊敬する人だしよォ。喜んでやるよ。

でもよォ、「やるのが常識だろ?」とか「言われずにやれよ」とかは、もうなァ、知らねーよ!!知らねェ、知らねェ、知らねェ!!!

 

知らねェ!!!!!

 

うわああああああああああ!!!!!

 

……でも、それはそれとして「特別扱い」するのである。その他の色々なものと同じように、「特別扱い」するのである。そして、こんな私だって、腫れ物に触るように「特別扱い」されるのである。

 

ったく。

 

ご機嫌だぜ。

 

(了)

「僕のヘビ母さん」は早めの予約がオススメです

お世話になっております。

 

突劇金魚「僕のヘビ母さん」に出演します。

kinnngyo.com

 

アトリエ公演なので、席数が限られています。たぶん、都合のいい時間は埋まりやすいと思うので、早めの予約をオススメします。劇団員も、観に来てね。

大熊さんが骨折したことで有名な壱劇屋の西分さんが、「この組み合わせを見れば全キャスト制覇できる表」を作ってくれていました。それがどこにあるかはちょっと分かりません。西分さんのツイッターなどを探せば見つかると思います。ぶんぶん。

 

稽古が少なめなので、かなり自主性に委ねられています。こういうことはあまり経験がないので、必要以上におっかなびっくりです。でも、稽古が少ないとわかっていたのに、一回目の稽古に台詞を覚えていかなかった僕は、やっぱり図太くて大丈夫だなと。ネガティブなんだかポジティブなんだか。放置プレイを受けている間、口の中でコロコロ台詞を転がしていると、いい気分になってきました。「こんな言い方もありだな」「ここで間をとってもいいね」なんてことをたっぷり考えています。

 

そして、こんなふうに考えてから、稽古に行くのが怖くってねェ。

そもそも稽古とはそういうものなのかもしれないが、ほら、身内だけでやってると、どうしても「そこは稽古場でやろう」としてしまうんだよねェ。「稽古場で考えりゃいいや」とかね。本当は、「稽古のための稽古」って必要なんだねェ。

 

でも、こういうふうに口の中で台詞をコロコロするのは楽しいね。壁ノ花団の作品でも、こんな時間を過ごしたな。ほら、iakuなんかはやっぱり会話が主体なので、「あとは稽古場でやりゃいいや」なんてすぐ思っちゃうのよね。ダメなんだろうけど、ついつい。中途半端なプランより、完全なるノープランのほうがいいっていう僕の哲学もあるのかな。

 

とはいえ、突劇金魚の最初の稽古は「とりあえずなんやわからんからノープランで行ったれィ!」の精神で突っ込んで、痛い目を見ました。ちなみにエダニクのときも「行ったれィ!」で突っ込んで、痛い目を見ました。なんなんだろうね。

 

(痛い目とは?……読み合わせの際、あまりの棒読みっぷりに「福谷君はあれやね。まだ全然台本を読んでないんやね」と上田一軒さんに言われてしまうこと。また、「いいと思うよ。その何も入れずに読む感じ」とサリngさんに言われてしまうこと。)

 

怖がりなんだな。

準備して、失敗するのが怖いから。

 

作品と向き合って答えを出すのは怖いけど。

「……こんなんどうっすかねェ…?……てへっ…てへへっ…」って、持っていかなくちゃな。そりゃやっぱり、役者の仕事だ。

 

恥ずかしいよなァ。芝居って。

照れちゃうよ。

 

でも、照れてるやつが照れ隠したモノがちらっと顔を覗かせたとき、すげーときめくし、キラキラするでしょ?

これ僕、作劇の上でも人生の上でも、作為的にやってます。てへぺろ

 

ただなァ…これも加齢とともに使えなくなって言っちゃててねェ…。参ったよ、おじさんは。20代前半の頃はこれが抜群の処世術として機能してたんだけど、最近どうにも。

あれなんだなァ…。おじさんのてへぺろって……「無い」んだなァ……。

 

僕からてへぺろ芸奪ったら、マジで彼女できないですよ……。

こっちは、てへぺろ芸だけで女の子の心掴んできたんですから。(ドン)

 

そんで大体「こいつ、てへぺろがうまいだけで、そこまで大したやつじゃなくない?」ってバレてフラれてきたんですから。(ドドン)

 

はぁ…騙されて欲しい……。

 

僕はてへぺろ、ヘビはちろちろ。

 

舌なめずりして待ってるからね。

 

予約窓口です。

http://ticket.corich.jp/apply/81088/009/

 

(了)

「サヨナラ、きりたんぽ」タイトル変更について

お世話になっております。

大阪で劇団やってます。

 

akita.keizai.biz

 

このニュース、ちょっと考えたい。

「サヨナラ、きりたんぽ」ってタイトルで、男性器を切断する内容のドラマが4月から始まる予定だったんだけど。それに対して秋田県が、県内外からの「あのタイトル、やめさせてくれ!」という声を受けて、「きりたんぽを男性器の比喩として使うのは不適切。変更求ム」と申し入れて、結局タイトルは変更になるそうだ。

 

まったくもって、理解不能である。今のところ、タイトル反対派の気持ちが分からない。もちろん、今のところなので、ちょっと待ってほしい。そこを考えたくて、これを書いている。

僕は、こんなツイートをした。

 

 

本当にそう思っている。

これは単に、「秋田県民のきりたんぽへの想い」と、「僕のたこ焼きへの想い」に差があり過ぎるせいなのだろうか。確かに僕は、郷土や名産というものに愛着がないほうではあるのだけれど。その辺りは、「郷土愛」というものが想像できない僕がダメかもしれない。

 

秋田経済新聞が8日、対面とインターネットで行ったアンケート調査では、タイトルに問題があると答えた回答者は約85%(106人)、問題ないと答えた回答者は約15%(19人)だった。

 

なんという比率だ。でも、やっぱり、僕には何が問題なのかさっぱりわからない。新聞にはこう続く。

 

「ばかにされているような印象を受けた」「食べ物と性器を結び付けるのは問題」などの意見が寄せられたほか、「SNSで炎上させることを通じて、ネットニュースやテレビ報道につなげた宣伝なのでは」との声も聞かれた。

 

……やはり、理解不能だ。

「ばかにされているような印象を受けた」とあるが、なぜそんな印象を受けるのだろう。ばかにされていないと思う。……まず前提として僕は、「ばかにされたところで問題なくね?」と思ってしまう人だが、それは僕の「郷土愛欠落症候群」だとしておこう。さすがに、きりたんぽをばかにされたら腹立たしい、という所には立っておきたい。じゃないと話が進まなくなる。

 

ここで問題なのは、「ばかにされているような印象を受けた」って、完全に印象の話をしていることである。びっくりしてしまう。印象って、印象じゃないか。ばかにされているかどうかの検証は、まだしていないじゃないか。まだばかにされているかどうかもわからないのに、「ばかにされているような印象を受けた」と攻撃を開始するのは、ちょっと暴力的だ。

 

SNSで炎上させることを通じて、ネットニュースやテレビ報道につなげた宣伝なのでは」、これについては一蹴したい。違うと思います。根拠はないけど、あなたもないからいいですよね。「炎上商法だろ?」「売名行為だろ?」っていうツッコミは、仮にそうだとして「そうですね」で終わる話なのでどうでもいいです。ビジネスの話だし。僕、関係ない。

 

「食べ物と性器を結び付けるのは問題」、これには大いに反論したい。食べ物と性器なんて、結び付いて表現される代表格ではないか。最近のグルメ漫画表現なんてポルノ化が激しくてすげェぜ。なにより、だったらグラビアアイドルがバナナを食べるのは何事だよ。キュウリだってナスビだって、奥さんが頬を染めながら手に取ったダイコンだって、少年が胸を高鳴らせて温めたコンニャクだって、ぜんぶ性器の代替品だぜ。

そしてそれは、あらゆる古今東西の作品で表現されてきたんだぜ。

 

(※知らんけど。日本特有の陰湿エロ文化やったらごめん。そんな気がしてきた。でも筆が乗っているので無視します。これはもうごめん、マジで許して。)

 

そのたびに、キュウリ農家もナスビ農家も、夜中に枕を濡らしてたってか?

んなこたーねーだろう。どら息子が納屋でコンニャク持ってしごいてたらそりゃあ悲しくもなるが、そんなシーンのある作られた作品を見たとして、「コンニャクをォ!!」なんていちいち言ってられないよなァ。……いや、どうだろう。確かに、コンニャクを愛していたら、そんな表現を見ると不快な気持ちにはなるのかもしれない。なるか。そうか。

 

確かに、丹精込めてキュウリを育てていると、AVなんかでキュウリ挿入シーンがあったりしたら、不愉快になるかもしれない。なるね、これは。うん。そこは、思慮が至りませんでした。だから、そうだな。

きりたんぽを愛している人は、やっぱり不快になってしまうんだろうな。

 

でも、でもね。

そして結論が出た。すごくきつめの結論で、申し訳ないけど。

 

結論:んなこた、知らねーよ。

 

いや、わかる。これは、きつい意見、過激な意見。ごめん。

でもさ、キュウリ農家を傷つけようとも、「キュウリを男性器に見立てた表現」がなくならないのは、「それが有効」だからなんだよ。

それが、価値のある表現になってるから、あり続けているわけなんだよ。

 

コンニャクとエロ本を買うシーンが今でもたまにあるのは、やっぱりギャグとして有効だからなんだよ。有効である限り、それは、素晴らしい表現なんだよ。

 

(※…うわもう、性器の暗喩として食品を使うっていう話と、性器の代替品として食品を使うっていう話をすり替えてしまっていることに今気づいた。ごめん、これも筆が乗ってるから無視したい。ほんまごめん。これが論文やったら遡ってちゃんと検証していくけど、もうこれはブログやから許して。もう、これは、僕のブログだから。ほんともう、プライバシーの侵害なんで。もうあかん、この記事むちゃくちゃや。最悪や。)

 

悲しむ人がいる、傷つく人がいる。それは、表現を自粛する理由にはなるんだ。僕だって、誰かを傷つけようとして本やブログを書いているわけじゃない。なんなら、面白がってもらおうと全力でピエロをしているつもりだ。だけど、それでも傷つけてしまうことがある。悲しませてしまうことがある。

そのたび、僕は問いかける。僕は、どうあるべきなのか。

 

僕は、表現がしたい。

だから、表現を許したい。

できることなら、すべての表現を僕は許したい。

これはもう、自分が表現したいからというわがままなのかもしれない。

 

真っ白なきりたんぽが焦げて茶色くなってさ、それに齧り付くシーンがあったとして、それは比喩として、表現として、芽吹いたかもしれねーじゃねーか。

それの何がダメなんだよ……。

 

きりたんぽを馬鹿にするなとか…うるせぇよ…きりたんぽはそんなふうに使うものじゃないとか……うるせぇんだよ……。きりたんぽに、単にきりたんぽにかじりついただけのシーンが、とんでもなく痛々しくそこに現れたかもしれねーのに。

 

キュウリなら良かったか!?ソーセージなら良かったか!?

それともチンポじゃねーとダメだってか!?

 

……ちくしょう。

なんだか、「表現の自由」ちっくな話になっていて気に入らない。

そんなつもりはなかったのだが。

 

結局、考えてみた結果、タイトル変更を要求する気持ちがわかってしまったから。わかってしまったから、もう、どうしようもなくなってさ。

「確かに、きりたんぽを愛している人に失礼だね」って結論は、「じゃあ、きりたんぽを男性器に見立てた表現は、やめようね」に発展するから。それがどうも気に入らなくて、「結論:んなこた、知らねーよ。」に逃げ込んでしまいました。

 

しかもかなり論理がぐちゃぐちゃ。申し訳ない。

 

やっぱり、相反する感情が渦巻いています。

「そんなことで抗議して、表現を抑えつけるような人間になりたくない。」という気持ちと、「表現である以上、あらゆる批判にさらされるべきで、時には自粛することも必要。表現の自由とは、何を言ってもいい、何をしてもいいという意味では、ない。」という気持ちと。

 

でも、うずまいてて当然だよなぁ……?

抗議してる人、うずまいてねェと思うんだけどな……。

 

そこがまた気に入らねぇし、タイトル変更もやけにアッサリしやがって、作り手側もうずまいてなさそうだし、なんだか……なんで俺だけ、なんで関係ない俺がこんなにうずまいてぐちゃぐちゃのブログ書いてるのかわかんないけど……。

 

ご愛嬌。

 

(了)

 

天使が許してあーげる

 

「産んでくれなんて頼んでない」

 

そう言ったあなたは、またビンタをされてしまいましたね。

どうも、天使です。

大丈夫、あなたは正論を言っているだけに過ぎません。

あなたのお母さんは、反論ができなくて、暴力に訴えてるわけですね。

安心してください。

あなたは、何の問題もなく正しいです。

もちろん、あなたのお母さんはあなたの言葉で傷ついていますが、そもそもあなたがいなければ傷つくこともなかったはずなので、やっぱりあなたのお母さんが間違っていますね。

だってあなたは、産んでくれなんて頼んでいないわけですから。

傷つきたくなかったなら、産まなければよかっただけの話ですもんね。

あなたは、傷つきたくないから、子供なんて産みませんもんね。

死にたいと思っているのに、産みたいわけありませんからね。

 

あなたは、産まれてこなければよかったと、心から思っていますね。

わかります。

どうも、天使です。

だけど、産まれてきてしまった以上、死ぬのが怖いんですよね。

そうだと思います。

それも仕方のないことなんです。

生物である以上、死に恐怖を感じるのは、どうしようもなく当然のことなんです。

だから、生きているだけなのに。

「そんなに死にたいなら死ねばいい」

なんて、勝手なことを言われてしまいますね。

大丈夫。

あなたは何も間違っていません。

心から死にたいと思って、ちゃんと死ねないのは、ただの生物学上の理由です。

間違っているのは、あなたのお母さんです。

 

だって、あなたのお母さんが、あなたを勝手に産んだんですから。

生物として。産みたいと思って。

自分勝手に。わがままに。自己中心的に。

あなたを産んで、笑っているんですから。

あなたは、産んでくれなんて頼んでいないのにね。

生物でもなかったのにね。

ただ、じっと、静かに、存在もしていなかっただけなのにね。

それでいいとさえ思わなかったし、それが悪いとも思わなくて。

とても穏やかに、いや、穏やかさすらもない世界で。

存在していなかっただけなのにね。

 

産まれてきてしまった以上、考えてしまいますね。

それがとても、つらいですね。

わかります。あたし、天使です。

死にたくなるけど、死にたくないんですね。

当然なんです。

産まれるって、そういうことなんです。

死ぬのもつらくなってしまう、逃げ道のない場所に放り出されてしまうんです。

そんなことをしたのは誰ですか。

そう、あなたのお母さんです。

 

憎いですね。

でも、あたし、あなたが本当は憎めないことも知っています。

産まれるってそういうことなんです。

あなたのお母さんに、本当は少し感謝していますね。

 

こんなに死にたいのに。

こんなに産まれたくなかったのに。

産まれてきたことを、どうしても、喜びに感じてしまいますね。

 

産まれるって、そういうことなんです。

 

産まれた時点で、幸福を感じることを無理やり押し付けられているんです。

生き物として、単純に。

呼吸を押し付けられるように。鼓動を押し付けられるように。

仕方のないことなんです。

ただの、生物学上の理由です。

 

だからこそ、嫌なんですよね。

だからこそ、苦しいんですよね。

わかります。あたし、天使です。

あなたは何も悪くない。

悪いのは、あなたのお母さんです。

 

あなたは、産まれてこなければよかったんです。

それでよかったんです。

 

産んだお母さんが間違っています。

 

あたし、天使です。

 

さようなら。

 

え。

 

……後のことは知りません。

 

……後は、それなりに、何度も親子喧嘩をしたり、時には仲直りしたり、絶縁したり、好きな人ができて幸福を感じたり、風俗で働いて嫌なこともあるけどたまに良いこともあったり、ジュースがおいしかったり、景色が綺麗だったり、人を殺すかもしれないけど反省したり、恐怖を感じたり、心が動いて動いて、まあ多くの場合は子供を産んで、……なんかそんな感じじゃないですか。

 

「産んでくれなんて頼んでない」

ええ、あなたは正論です。

 

それで終わりです。はい、あたし、天使です。

あなた、産まれたこなければ良かった。その通りです。

 

でも、産まれちゃって。

それはあなたのお母さんが悪いとして。

 

この世の全員が「産まれた人」で、

あとは全員、「産まれた人」の生物学的な感じで生きていきます。

それは、どうぞ、そのまま進めてください。

だって、死ぬのも怖いでしょ。

それはさっき、話したでしょ。

 

あたし、天使です。

 

生物じゃなかったあなたを肯定しますけど、

生物のあなたのこれからに、大して興味はありません。

 

お幸せに。

 

Have a Nice Day!

浅野いにお地獄

 

「先輩、そんなに浅野いにおになりたいですか?」

 僕はただ、電車に乗っていただけなんだけど。後輩、演劇部の高橋結菜が僕の目の前に仁王立ちしていた。そういえば、彼女はいつだって仁王立ちしているような気がする。やることなすことがいちいち大袈裟なのだ。無論、それは演技にも反映されていて、演出の大塚も頭を悩ませている。……僕には関係のないことだけど。

 一旦は驚いて顔をあげたものの、どう答えていいものやらよくわからない。いじっていたアプリゲームはどうでもいいものだったけれど、夢中であるということにして、再び顔を伏せた。ぱんぱんに膨らんだ彼女の学生鞄が視界にちらつく。

「高橋。今日、稽古は?」

「今日は休みです。先輩、そんなに浅野いにおになりたいですか?」

 高橋はまた、よくわからない質問を繰り返した。なんなんだ、それは。まず僕は、そんなことを彼女に言った覚えがない。そして、そんなことを一人で思った覚えもない。ひとまず、僕が浅野いにおになりたいと思っていた(あるいは、言った)として、それを高橋は良く思っていないのだろう、ということだけはわかった。感情表現が豊か過ぎるのだ、彼女は。

「……浅野いにおになりたいと言った覚えはないけど」

「けど?けどってことは、言ってはないけど思ってるってことですか?」

 言葉尻を捕らえられた。けど、というのは単なる僕の口癖だ。損をすることも多いので何度も直そうと試みたが、なかなか直らない。この口癖のせいでいつも、何か文句があると思われてしまうことがほとんどだ。とはいえ、無意識に口走っているわけだから、もしかすると無意識下に何か抱えているのかもしれない。しかし、仮に僕が浅野いにおになりたいと無意識下で思っていて、それが「けど」に現れたとして、一体なんだというのだ。

「それの、何が悪いの?」

 思わず反発してしまった。これでは、本当に浅野いにおになりたいみたいではないか。

「先輩は、先輩でいて欲しいです」

「……隣、空いてるから」

 僕は高橋を隣に座らせた。いつまでも仁王立ちされているのも居心地が悪いし、なにより突然、彼女が目に涙を浮かべ始めたことに戸惑ったからだ。全く、彼女の演技と同じだ。事実と挙動が釣り合っていない。僕が浅野いにおになりたいとして、それが一体、なぜそこまでの反応になってしまうのか。少しだけ、演出の大塚の苦労がわかる。

「先輩の台本、昨日、読み合わせをしました」

 読み合わせ、というのは台本の音読のことである。役者が輪になって、台詞を読んでいく。配役が決定している場合もあるし、配役を決定させるために行われる場合もある。僕はこの読み合わせがとても苦手だった。読み合わせだけでなく、稽古の初期段階がたまらなく恥ずかしくて、できる限り本番、もしくはそれに近い時期しか自分の台本の劇は観ないようにしている。不思議なもので、本番ともなれば自分の脚本との距離はとても遠くなって、素知らぬふりで観ていられるのだ。それに、そもそも僕は演劇部ではないから、稽古に顔を出す必要もない。

「先輩、浅野いにおって読んだことありますか?」

 今更。僕は、浅野いにおの熱心なファンという訳ではない。ただ、作品の内容にはシンパシーを感じるし、面白いと思って読んだことがある。

「あるよ」

「どう思ってますか?」

「面白いと思ってるけど」

「けど、なんですか」

 ああ。また。

「……面白いと思ってるけど、ワンピースのほうが好きかな」

 僕は思わず吐いた「けど」の隠し場所を、適当に選んだ。

「ワンピースのどこが面白いんですか?」

 高橋は怒っていた。ワンピースがあまり好きではないのだろう。今にもぷんぷんという音が聞こえてきそうなほど、頬を膨らませている。嘘みたいな子だ。

「ワンピースは……、冒険するところが、いい」

「なんですか、それ」

 確かに。なんなんだろう、それ。

 きっと、今回の僕の台本が浅野いにおの作風を思わせる仕上がりになっていたのだろう。彼女はそれが気に食わないらしい。作家に直談判とは恐れ入る。

「高橋は、浅野いにおが嫌いなの?」

「……よくわかりません」

 彼女が、珍しく曖昧な表情をした。ぜひ、演技にも反映してもらいたい。油断すると思わず見とれてしまう。演出の大塚も、彼女のこれを引き出したくて、いつも躍起になっているわけだ。あまりじっと見続けるのも気恥ずかしいから、窓の外を眺めるふりをした。

「あたしには、浅野いにおの漫画が、よくわかりません」

「それ、ハムレットを読んだ時も言ってなかった?」

「ワンピースも、意味がわかりません」

 彼女には、一体何がわかると言うのか。

「でも、先輩の台本は、わかっていたつもりです」

「なら良かったけど。あ、けどって、別に」

 高橋は、僕をまっすぐ見つめて、こう言った。

「先輩は、浅野いにおにはなれませんよ」

 少し、腹が立ってきた。

「ちょっと待って。そもそも、浅野いにおに憧れた覚えがないんだ。もし、今回の台本が浅野いにおっぽいなら、謝るよ。でも、わざとそうしたわけじゃない」

「あたし、年の離れたお姉ちゃんがいるんですよ」

 何の話だ。いっそ、軽く小突いて終わりにしてしまおうか。

 そう思ったけれど、今度は彼女の表情がわかりやすく悲壮感にあふれていたので、すぐに心配になった。最大級に悲しみを表現している表情だ。それにしても、訳が分からない。どうしてそんな顔をすることになったのか。

「お姉ちゃんは、綿矢りさになりたくて仕方なかったみたいです」

綿矢りさ?」

「そんなに、今どきの若者を切り取りたいですか?」

「ごめん、意味が分からない」

「そんなに若者の代弁者でありたいですか?そんなに今風の若者でありたいですか?」

「あのさ、高橋。そんなふうに思ったことはないけど、実際に俺たちは、今どきの若者だろう。そんなにも何も、自然とそうなるものなんじゃないか?」

 もう高橋は、すでに号泣していた。大粒の涙をぽろぽろと零している。

「つまり、なんというか、時代を切り取るのがうまい人は、いつだっているわけでさ。僕らは実際、若者だから。実際の若者である以上、その切り取られた時代の、作品の、中にいてしまうのは、ある種、当然なわけだから」

「あたしたちは、切り取られた側ですか」

「その、だから、普通だよ。それは。うん。普通、普通」

 僕は慰めなのか何なのかよくわからない言葉を繰り返すしかなかった。彼女の言い草は少し不愉快だったけれど、かまわない。とにかく、泣かないでほしい。電車の中で泣き出す女の子をフォローできるほど、僕はまだ大人ではない。もちろん一緒に泣くほど子供でもない。ただどうしたらいいのかわからずに、なぜかスマホで時刻を確認してしまう今どきの若者なのだ。17時15分。それがどうした。

 電車は貝戸駅に到着した。ここで特急に連絡する。乗り換えた方が、10分ほど早く自宅に到着するのだが、どうしたものか。そもそも、高橋はどこまで帰るのか。

「高橋は、このまま、この電車?」

 僕はおずおずと尋ねた。泣いている女の子に対してはいささか冷たすぎるかもしれない。

「先輩、海に行きませんか」

 高橋は、顔を伏せたまま呟いた。耳が、真っ赤だった。

「どうして?」

「先輩のことが、好きだからです」

 ……ああ、僕たちはこうしていつまでも、浅野いにおの漫画から抜け出せないのだと、そのときやっと気が付いた。高橋の手を取って、電車を降り、反対側のホームへ向かった。どうせ、海に着いてからも、作品についてや恋愛について、虚しくも情熱的に議論を重ねるんだろう。そして、どうせ、キスだってしてしまうんだろう。これがヤングマガジンなら、どこか海の家でセックスもしてしまうんだろう。くそったれ。

「高橋。俺、浅野いにおにだけは絶対になりたくないんだよ」

 僕は言った。

「先輩。あたしだって、そうなんです」

 高橋は言った。

 

 舞台の幕は、まだ上がらない。

 

(了)